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プラクティス

 31,2020 11:59


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ヨガは今ではとてもポピュラーで
いろいろな状況と条件にある人が
分け隔てなくそれをプラクティスできるようになりました

健康体操のようにヨガ(ここではアサナ)を取り入れている人もいるし
ダンスやあるいはアクロバットを楽しむように
自分の体の可能性と限界を追求するようにそれを楽しむ人もいる
身体的な故障などの回復のために使う人もいれば
ひたすら良き人に、あるいは
調和のとれたあり方をしようと努力する人もいる

それぞれが
それぞれ自分に合うものを選択する

私は
自分がそこに共鳴するもの
心に閃くものを感じるヨガ

そうした「ヨガ」を実践するのがいいと思います

ヨガは素晴らしい教えで
私たちをウェルネスへと導くシステムだと私は思っています
それは、やはり丁寧に、経験を重ねた先生から時間をかけて学ぶのが
本来の学び方だと、今でも思います

同時に

そうしたものを必要だと思わない人も
また世界には存在します

必ずしも誰もが
本来のヨガを実践したり探究したり
あるいは「道」を歩いたりしなくても良いと私は思っています

それを選択した人が歩む

ヨガ本来の考え方からすれば
無明の中にいて
苦悩にまみれていると思えたとしても
人はそれぞれ自分の人生を歩んでいます

ヨガってそうしたものじゃないのになぁと思っても
(そう思うことはたくさんありますし
そのような場面に出会ったとしても
どちらにせよ私たちもさ迷っていますしね)

それぞれのあり方はそれぞれが決める

だからこれが正しいのだと声を上げたり
精神性の優位を主張したり批判したりせずに

もし、ヨガの智恵を生かすのであれば
慈悲や思いやりという形で
それを実践するのがよいと私は思います

間違いや誤解を正そうと躍起になると
それは苦闘です

そう思います
そして
苦闘したいとは誰も思わないでしょう



私は

”それは必要としている人に必ず扉を開く”

そう思っています

そのことに開いていたら導かれていく
それは私たちをウェルネスへと導きます


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ただそこに、幸せに居る毛皮のヒト
怒ったり慌てたり頭悩ましたりもあるけれど、おおむね平安に生きてはります


以前NYCで一緒にプラクティスした曹洞宗の僧侶で
現在、とても活躍されている Koshin さんが
先日、Issho Fujita さんの言葉にインスパイアされて
座禅について短い考えをシェアされていました

それがとてもいいなぁって思ったので
ここにシェアします


“Uchiyama Roshi says [zazen] is “an effort to continuously aim at a correct sitting posture with flesh and bones and to totally leave everything to that.” In his definition there is no shuzen element which assumes the central role of mind in shuzen practice. In opposition, the somatic element of zazen is strongly emphasized. If we can understand Bodhidharma’s “wall gazing” as an effort“ to keep sitting with bodymind being like a wall, whatever happens, let it flow as it is, without clinging to or fighting against it”, it is very similar to Uchiyama roshi’s definition of zazen. In this kind of practice, to do zazen means just to sit solely aiming at a correct posture. There is no other need to reach a certain state of mind as a goal or to attain a special experience. Therefore we are freed from anxiety and frustration which comes from seeking for a special state of mind and experience which we have not yet attained and are able to peacefully rest in the here-and-now as it is, nothing special. There can be no competition or ranking based on what is achieved because there is no fixed attainment target. All those human struggles are totally suspended in zazen. That is why zazen is called the “dharma gate of joyful ease”. We simply make a sincere and straightforward effort to sit zazen with body and mind all together without desiring to get something however lofty it may be.”  




内山老師は座禅とは、肉と骨を使って正しく座ることを継続して目指し、全てをそこに注ぐことだと言いました。

彼の考え方には、修禅においてマインドはその中心的な役割を担うものだという要素がありません。

それに反して、座禅における身体的な要素が強く強調されています。


もし、菩提達磨の「壁観」を、何が起ころうとも、それにしがみついたり争ったりせずに、過ぎるにまかせ、

体とマインドを使って壁のように座り続ける実践であると理解したなら、

それは内山老師の座禅の定義ととても似ています。


このような実践においては、ただ正しい姿勢で座ろうと努力することが座禅ということになります。

これ以外に、特定のマインドの状態に到達する必要もなければ、特別な経験を得る必要もありません。

それゆえ、特別なマインドの状態とその経験を求めては、それが得られずに不安や不満を感じる必要がなくなり、

平安のうちに、あるがままの今とここに心穏やかにいることができます。


そこに特別なものは何もありません。


到達せねばならないような固定した目的がないので、何かを達成しようと競争したり、

それによってランク付けされることもありません。

こうした人間の葛藤は全て、座禅において横に置かれています。


それゆえに座禅は「喜びに満ちた平安という法の入り口」と呼ばれているのです。

私たちは、どれだけそれが高尚なものであろうとも、何かに到達しようとせず、

シンプルに、体と心をあわせて座禅を座るという、真摯で真っ直ぐな努力をするだけなのです。


Koshin Paley Ellison


(translation:Kaori Kokita)



ヨガの実践もこれと同じだと私は思います


ただの身体的なプラクティスだというのではありませんが

私たちは意識してそれを使い
その先は委ねる

先についてあれこれ言葉で解説する必要がない

どうなる、ということは考えなくていい


哲学的な思索は大切な要素の一つなのですが
それを目的に、そのためにするのではなくて
そしてまたそれを使って自他を批判するのではなく
ただ、毎回、丁寧にその時の実践を淡々と重ねること
そう私は思います


OM







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