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滋養となるものにつながる

 15,2019 21:29






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先日、暑い午後のこと

けだるさとぼんやりする頭で

ヨガと仏教に関する記事を追って

何気なく探っていたところ

この言葉に出会い

はっと目がさめました



One of the core teachings of yoga is dukkha,

which most people translate as suffering, being unsatisfied, or stress. 

But, really, the heart of dukkha is the inability to be content. 

And the inability to be content, for most of us, means not knowing

what nourishes us and not being connected to what nourishes us.



ヨガの中心となる教えの一つに dukkha(ドゥカ)があります。

それは、多くの人が suffering(苦しみ)と呼ぶものです。

ですが実際のところ、dukkha の本質は、満たされないということです。

私たちの多くにとって、満たされないということは

何が私たちの滋養となるのか知らない、ということを意味します。

そして、その滋養となるものとつながれないでいる、ということを意味します。



滋養となるものを知る

滋養となるものに繋がる




実際のところそれは何なんだろう?





私には苦しみがある

私は満たされていないと感じている

私の滋養となるものが何かわからない





ここでいう苦しみや不満って

大きなものから

ほとんど自分では気がつかないような

とても微妙なものまで





そうしたものが私たちの中にある





ヨガ、瞑想、座禅・・・

あるいはそのほかのスピリチュアルなプラクティスって

それに気づくための手段だと私は思うのです




そしてそれらは

滋養となるものは何なのか?という問いをめぐって

探る糸口を与え、導いてくれるもの

でもあるのだろうなって思います




自分の中に不満があることを気づく事には

メリットがあると思うのですが

それに気がつくと


その元凶はあれだ、とか

こうだったから良くなかった

ここで間違ってこうなった

などなど


「分析」や「解釈」を

してしまいます




私も長い年月それを繰り返してました


瞑想を始めた頃もそんなでした




分析や解釈は

その場の納得をもたらすかもしれませんが

それは多分

また同じ苦悩のループを生み出すように思います


それは

ずっと

ぐるぐる回ってる





それを考えていた時

宮崎奕保禅師の言葉を思い出しました



人は皆、欲のために苦しむから

「少欲知足」を実践するのがよい




無くすのでなく

少なくする




苦しみの元となる欲望は無くならないけれど

少なくすることはできる



少なくするために座禅する


苦しみが少し減って

平安が少し広がる


滋養となるものにつながる




ヨガでも

瞑想でも




その実践の中に

私たちに滋養をもたらすものとつながる機会が

開くのではないかなと思います



実践をすることそのものが

滋養なるものとつながる事なのかもしれない



そしてそれは

きっと




本来の自分とつながる




ということなのだろうな


などと台風の夜に考えを巡らせています





OM










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