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200時間と学んだこと

 01,2016 19:44


先日、ヨガ・ティーチャーのための200時間のトレーニングに
通訳としてお手伝いに入らせていただきました。

トレーニングの場で
言葉を越えて伝えようとする先生と
この場から学ぼう、学びたいとうトレイニーの熱意と姿勢から
いろいろなインスピレーションを受け取りました。
自分の200時間の頃のことが頭に浮かび、
忘れていたことをいっぱい思い出しました。

200時間のトレーニングそのものは修了したからと言って、
ヨガのエキスパートであるとか
人に教えるだけの十分な知識を持っていますというような
証明書にはなりません。

ティーチャー・トレーニングという名前がついてるから
誤解しやすいけれど
それは結局のところ、
200時間ならヨガのあれこれの
さわりの部分を
パッケージでさらっと
学ぶようなものです。
それはまぁ500時間でも大して変わりありません。
そしてまたテーマに特化したトレーニングもやはり同様です。

それらは、ヨガというツールを使えるようにするための
考え方や工夫を手渡してくれるだけです。
そして実際に使えるようにするには
自分で実践し、学びを重ねるのみです。
教える内容に違いはあれど
それは誰に学んでも同じです。

ヨガは本当に広大で深い。
「トレーニング」で教えられることは限られています。

元来、ヨガは師から直接学んだので
そして、それは文字どおり「道」ですので
そういう意味では
このパッケージ・トレーニングは弊害でしかないという
声があるのも一理あるとは思います。

でも、200時間のトレーニングを修了したとき
私はそこで素晴らしい経験を得ました。
そのことが、
ヨガについて学びを、探求を重ねたい
という思いにつながりました。

学んだ先生やヨガ仲間とそこで共有した時間は
ヨガについて確かな何かを掴んだとか
ヨガ哲学から、真理やスピリチュアルについて理解できたとか
身体やエネルギーについて明確な知識を得たとか
そうしたことではありませんでした。
もちろん、沢山の色々な事を学びました。
私にとって、学んだことを落とし込むのは大変でしたが
それでも、入り口は、入り口でしかない。

終わった時にとてもはっきりと解ったのは
「私たちはどこにもいかない」という
そのことでした。
そしてそれは大きな学びでした。
それは、私の私自身に対する接し方を
大きく変えました。

いろいろな意見があり視点があると思いますが、
200時間のトレーニングは弊害だけではないと私は思います。
そして、私にとって、それは無駄ではありませんでした。

トレーニングを終えた時点で私にみえたのは、
ヨガの道を歩んでみよう、旅してみようと、
自分は、まだ、思い立ったところにいるのだ
と、いうことです。

プラクティスという道も
指導という道も
自分自身がそこで受け取ったことを繰り返し試しながら
自分の思い違いや、思い込みや、見えてないことを通り抜けて
気づきを重ねることで洗練されてゆきます。



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ヨガは結局のところとてもパーソナルなものだと思います。
先生がたとえこうだと言ったとしても、
自分の内にある声や感触も同様に大切にすることです。
それを聞く耳を育てるということは
自信や信頼やオープンネスを育み
手放したり、リラックスすることを繰り返して
うまくいくことも、いかないことも
自分の中の不安定さも、抵抗も経験して
その経験から気づきを重ねることで育つものだと私は思います。

ヨガが実践を大切にするのはそういうことだと思います。
どんなに科学的でも
「私」の感が、私の感触がそれと違えば
やはり「違う」のだと思います。
あるいはその時点では保留しておいていいのだと思います。
良い先生は「絶対」という言葉や姿勢をとりません。

プラクティス(教えるなら指導も含みます)を
丁寧に重ねるということが
本当にどういう意味なのかを
導いてくれる先生であれば
200時間の形式であろうが
1対1の学びの機会であろうが
それはどちらでもよいように思います。

トレーニングという学びの機会をたくさん持っても迷うだけの人もいれば
トレーニングによって、学びを深める人もいます。
時間もかけ、知識を持っているものの薄っぺらいこともあれば
自身の生きてきた経験からとても豊かなものを手渡せる人もいます。
たくさんの学びの時間をかけてなお、大きな誤解をしたままであったり
そもそもヨガに触れることなく、澄んだ目で見通すことができることもあるでしょう。

道は長く終わりはない。
だからとても豊かです。
そのことを、とても深いところで認識した時
ヨガを実践するしないにかかわらず
誰もがその道の途中にあることが
真の意味で見えてきます。

私たちはだれもが例外なく道の途中にあります。
そのことを知れば知るほど
そして重ねれば重ねるほど
私たちは謙虚になります。

「どこ」にいないと「いけない」ということはありません。
迷っている状態を批判したり否定しなくてもよいです。
スピリチュアルな道はパーソナルなものだから
どの地点にいようと、そのどれもがOKです。

私たちがすることは
ただ「自分の」実践を重ねることです。


Love & Light




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