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ヴィンヤサについて思ったこと

 30,2014 17:48
ヴィンヤサ

フローとか繋げるとか・・・??

う〜ん・・・だけど、やっぱりそれだけじゃないんだけどなって思います。

何気なく目に入ったある先生の「ヴィンヤサ」のデモビデオ。

びっくりしました・・・。

ヴィンヤサは「奇抜で目を引くトランジション」を言うのではないんだけれど・・・。
その中では、ヴィンヤサ=アクロバット的トランジションという感じでした。
その「奇抜」な部分だけを切り抜いて、そしてヴィンヤサと紹介してPRしてました。
別に意図があったとしても、その表象では奇抜さで人を集めるのが目的に読めてしまいます。

しかも、その人の身体・・・悲鳴を上げてる感じがしました。
もちろんこれまでに鍛錬を重ねた強靭な肉体を持ってるわけなんですが・・・。
ひどく乱暴な、暴力的なヨガでした。

アヒムサ?

クラスでヨガ哲学教えながら、その真反対をメディアで宣伝するのって
大概大きな矛盾のように思います。
もちろん完璧である必要はないし、道の途中であるわけだから揺れていてよい。

だけど、こうしたメディアに載せる前に、色んな事を考慮するスペースあるはずなんです。
謙虚であることや思慮深くヨガを伝える事を、口で言うだけでなく実践に繋げる努力をする。
こうしたヨガの表象に関する事が問題視され、声に出されるようになって久しいし、
アメリカのヨガシーンでは、常に多くの議論が活発にされているわけなのだから。

こうしたヨガ・セレブリティは、メディアに何を載せるか考慮する責任あると思います。

世界的にも有名で、いわゆる一流と呼ばれるような先生だから、
驚きもちょっと複雑でした。

別のスタイルで長く教えてきた先生でした。
私も一度WSに入ったことあります。
とってもいいWSだった。
襟を正してまた丁寧に重ねようと思うような素晴らしいものでした。

なのに一体全体、何故こんなこといなるのだろうと思います。

売る、ビジネスとして成り立たせていかなくてはならない、というのがあるのは想像できます。
だけど、ヨガを教えるに当たって基盤となるエッセンスは投げ捨ててはいけないと私は思うのです。

それぞれのヨガのスタイルとその哲学ってちゃんとリンクしているんです。
とても親密に、密接に。
だからプラクティスへのアプローチもそれぞれ違う。
でも、それ故に、気づきが深まり、プラクティスが(つまり生き方も)洗練されていく。
それはポーズがきれいになるとか、
経験を必要とするポーズができるようになる、という事とは違う意味の洗練です。

色々なスタイルのヨガがあって哲学があるのは確かです。
それらは山の頂上に通じるルートがそれぞれ違うというだけなのです、
と、そうした表現がよく使われるしそれももっともです。

だけど、こんな風になってしまうと、これは間違った標識が設置されたゆえに、
人はルートから外れて樹海に迷っていくだろうと思います。

売る為に、ビジネスとして成立させるためにこうした矛盾を、
何故許容してしまうのだろう・・・と思います。

先日も、やっぱりどこに持って行きたいのかよくわからなくて、
終始、なんだか安心できないクラスにであいました。
脈絡無く、沢山のものが一杯詰め込まれていて、ざわざわしていました。
あおり立てるような感じ。

あるポーズから別のポーズにとりあえず繋いで、
そしてこれでもかと延々とそんなのを足しているような感じでした。

なんとなく、来る人を「おぉ!やったことない!」って驚かせたら、
そのクラスはOK・・・っていう感じなのだろうかと頭をかすめました。

先の例にしろこれにしろ、ヨガかな?って思うんです。

驚かせる必要ないんです。
丁寧に教える事を放棄してはいけないと思うのです。

自分のみならず、人のエゴまで、ヨガを使ってかき立てるようなことをしなくてよいのです。

先の先生も含めて、教えることに携わっている私たちは、
常に立ち止まっては自分を振り返る必要あると思います。
私自身もそのようにしたいと思います。

丁度トレーニング教えてる最中で自分も普段より意識しているからなのか、
なんだかやるせない気がします。
とても残念で、そして頭と胸がもやもやと、憂鬱な気分になりました。

ぼやいたりしていないで、自分にできることを淡々と重ねるだけだ・・・

と思う一方で、

やはり矛盾に感じる事は、自分の意見として声に出すことは大切なのかも・・・

と揺れた今日でした。


Namaste
















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